年の おわりに  ・  夕焼け プラタナスの並木 ・ 雑感

  • 2007.12.31 Monday
  • 07:32


 建築設計業界は6月20日の建築確認申請の法改正により、確認申請の大幅な遅れ、それに伴なう工事着工の遅れで、いまだ大きな混乱が続いております。

 私の事務所も大変でしたが、設計、講演、執筆と忙しい一年であったこと、また健康に恵まれたこと、皆様のおかげと感謝しております。

 2007年を象徴する漢字は 「偽」でした。
 信じる心を裏切られ続けた一年でしたが2008年は 「豊」、「和」、「幸」 などの漢字が選ばれ、豊かさと、幸せが実感できる年にしたいものですね。

 来年も一生懸命努力し、住環境の向上と、喜ばれる建築を設計していきたいと思います。
 



 夕焼け  プラタナスの並木 ・ 雑感

夕暮れの公園とプラタナス並木の場所はどこでしょうか。 郊外の公園か地方都市の風景を 想像されるかもしれませんが、この二枚の写真は 新宿御苑 です。

 一歩公園の外にでれば喧騒溢れる新宿の街。 
 この日は散歩の足を延ばし、私の好きなプラタナスの並木を見に行きました。

 冬枯れのプラタナスそして、枯葉 という言葉から、私たちの世代は ゛風゛ というフォークソングを思い出します。     
       

   プラタナスの 枯葉 舞う 冬の道に
 
   プラタナスの 散る音に 振り返る ・ ・ ・ ・ ・ 
 設計で深夜まで作業していると、ラジオからよく流れていました。私の思い出の歌でもあります。

  またこの公園のプラタナス並木とベンチは、よく小説の舞台にもなります。
 私の好きな作家  芝木好子 の小説でもベンチに座って、恋人と語り合う場面がでてきます。 

 それだけ絵になる情景ですが、残念ながら 午後4時30分で閉門になります。
 夕焼けも最後まで楽しめませんし、夏は明るいうちに追い出されてしまいます。

 この公園がヨーロッパのように夜も市民に開放され、都市空間と一体化されていたらどんなに素晴らしいかと思います。

 公園発生の歴史の違い、国や市民の意識の違いとでも言いましょうか、日本はまだまだ遅れていると言ってもいいのではないでしょうか。

 それは公園だけではなく、街路樹、森、街並、 などにも共通しています。

 たとえば、ヨーロッパの人達のように 私たちの公園 、私たちの森 という意識が残念ながら不足しているように思います。

 日本の都市空間や街並が貧しいのも、私たちの共有財産 という概念が希薄であることが、大きな原因のような気がします。

 















京都  太秦・堀木ギャラリー  ・ 洛中 散 策    

  • 2007.12.21 Friday
  • 11:49


晩秋の京都を駆け足で巡ってきました。
 目的は以前仕事をしたクライアントの打合せ一件。 そして現在設計が進行中の住宅に 堀木さんの和紙を使ったデザインを検討するため、太秦(京都の西、東映映画村の近く) にあるギャラリーに行ってきました。

 ギャラリーでは約1時間ほどこれまで手がけた作品や、建築家とのコラボレーションの仕事の説明など、スタッフの方から聞きました。
堀木さんは和紙を素材に様々な可能性にl挑戦し、高い評価を受けている方です。

 以前クライアントと私は横浜の そごう美術館 で作品を拝見していましたし、特に照明を入れた時の和紙の表情の豊かさは、とても魅力的でした。
 
 今回の住宅ではリビングの吹き抜けの天井や、玄関ホールのオブジェや、空間を区切るパーティションなどを検討しようと思っています。

 様々な出会い、そこから生まれる感動、そんな気持ちを大切にしたいと思います。

洛中  散策

京都のこの時節は、紅葉が終わり観光客も少なく静かでした。冬枯れの木立には、紅葉した葉がわずかばかり、散り忘れたように残っていました。

 

 黒谷 ・ 真如堂



一面の落ち葉を踏みしめながら歩く 野の道 は、京都ならではの趣があります。

 堀木ギャラリーを後にして駆け足で、鳴滝のはずれにある 了徳寺 で師走のこの日に行われている行事、 大根だき で大根を食べに行きました。

 そして吉田山に近い私の好きな 黒谷の真如堂 界隈を歩き、祇園町北側の 京都現代美術館で 木村伊兵衛 写真展 を見て四条大橋に着いたのが6時。

 夜は陶芸家の友人と、高瀬川ぞいの小さな店でお酒を酌み交わし、長いような短い一日が終わりました。
 


 
















映  画  ・  映画 続 三丁目の夕日  の話

  • 2007.12.08 Saturday
  • 09:27


 見たい映画があるときは、設計作業の合間や外の打合せが早く終わった時などサッと見に行きます。

 それでもなかなか行けず、11月から見たい映画が3本ほどたまり,映画の終了が間近に迫ったため、2週間で3本見に行きました。

 その映画とは、 象の背中 ・呉清源 〔極みの棋譜〕 ・続・三丁目の夕日 共に新聞に取り上げられ、見ごたえのある映画でした。

  
象の背中 
 エリートサラリーマンがある日医者から、末期癌で余命6ヶ月と宣告され、その後の人生。
呉 清源 〔極みの棋譜〕
 昭和の初期から戦後の激動期、中国生まれの呉清源が「昭和の棋聖」といわれるまで孤独と戦いながら「棋士」としてどう生きたか。
続・三丁目の夕日 
 貧しく売れない小説作家が奮起し 芥川賞 を目指して自分の人生を賭けていく。

 共に共通しているのは、人間が人生ギリギリの中で何を選択し、何を心の支えとして生きていくかという事を、私たちに突きつけています。

 時代を超えて人間を支えてくれるのは、家族の絆であり、友人であり、今は失われましたが 三丁目の夕日 のような隣近所の人たちの、温かい励ましや愛情なのでしょう。

 心に残る重い映画でした。

 いい映画の後、余韻を楽しみながら飲むコーヒーか一杯のビール、至福の時でもあります。


 映画 続・三丁目の夕日  の話


映画は見る人の生きた時代、年齢そして職業によっても見方や感想も異なってくると思います。私は建築家という職業柄どうしても住まい、家族、暮らし に目が向いてしまいます。

 またこの映画は昭和34年、5年後に東京オリンピックっを控えた東京が舞台。
 東京から遠く離れた山形に育った私も同じ時代の空気や、少年時代に共有した原風景に重なる部分も多い映画でした。

 この時代は今は死語になってしまった向う三軒両隣の人情も生きていて、誰もが貧しくつつましい生活でしたが、助け合いながら、明日の未来を信じて生きた時代でもありました。

 住まいは茶の間を中心に寝室、縁側、台所が並び、茶の間には映画のように家族と共にいつも近所の人たちや、子どもの姿がありました。

 どの家庭も子どもの勉強机は茶の間のちゃぶ台で、折りたためば遊び場や寝室になりました。もちろん専用の子供部屋はありません。

 茶の間が子どもにとって社会性や人間性を学ぶ社会の窓であったことが、この映画でも語られています。

 昭和30年代は 「三種の神器」と言われたあこがれの商品、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機 を手に入れるため皆一生懸命に働きました。そしてひとつひとつ買い揃える事が家族の絆を確かめる事でもありました。

 三丁目の夕日 はそんな高度成長の幕開けの時代でもあり、社会も家族も大きく変容する時代が背景になっています。

 主人公の茶川龍之介がお金の力で子どもを引き離そうとする資産家に、「金では買えないものがあるんだ」 と言う叫び。それは監督、脚本を手がけた山崎 貴 監督の「どんなに時代が変わろうと、変わらない大切なものがきっとある。」 というフレーズの中に集約されたメッセージでしょう。

 しかし、六本木ヒルズにオフィスを構えた東大卒のI T長者が、「人の心を含め金で買えないものはない。」というおごりの言葉が、一部の人達であれ受け入れられている状況に、時代の危うさを感じます。

 この時代から50年を経て、社会や産業構造も大きく変わりましたが、最も変わったのは家族と子どもが育つ住環境ではないかと思いました。

 私たちはこの50年で何を得て、何を失ったのでしょうか。失った代償は何だったのでしょうか。
 この映画は、そんな重い問いかけをしながら面白く、重さを感じさせない心温まる映画でした。

 第一作目からわずか二年で続編が出来たことは、この映画が単なるノスタルジーや郷愁ではないことを物語っているのではないでしょうか。

 














講  演   ・  「金属バット両親殺害事件」 の話

  • 2007.12.02 Sunday
  • 12:11


家の間取りが子どもへ与える影響  
       ・ 家族のコミニケーションが取りやすい間取りとは?
       ・ 子ども部屋っていつごろから必要? どのように使わせたらいいの?
       ・ 自立を促す子ども部屋の与え方とは?

 というテーマで講演をしてきました。
 主催は、 川崎市立富士見台小学校PТA・成人教育委員会 です。

 富士見台小学校は一時生徒数1300人以上を抱え全国一だった時期もありました。

 また1980年日本中を震撼させた 「金属バット両親殺害事件」 を起した少年の学校区でもあります。

 それだけに関心も高く定員オーバーの参加があり、質問コーナーも熱気に溢れたものでした。

 子どもに いつ、 どんな 子ども部屋 を与えてよいか共通する理想の子ども部屋は無いだけに、お母さん方は真剣そのものでした。


 「金属バット両親殺害事件」 の話

 東京大学卒業の父、旧家出身の母。 一流大学を卒業し、一流企業に勤める兄。
 二浪中の次男が、神奈川県川崎市宮前平の高級分譲地に建つ自宅で、就寝中の両親を金属バットで撲殺した。  (1980年11月)

 詳細を説明する紙面はありませんが、印象に残るのは少年が逮捕された後、留置所でノートに書いた言葉です。

 宮前平に引っ越す前まで住んでいた社宅での暮らしに触れ、家は狭かったが家族が必ず一日一回は顔を合わせ、家族団らんを楽しんでいた頃が一番幸せだったと語っています。

 誰もがうらやむ高級分譲地に引越し、立派な子供部屋を与えられましたが、父親は仕事で帰りも遅く、そこには温かい家族の団らんはありませんでした。

 一流大学合格を課せられた彼は、バラバラな家族関係の中で、疎外感や孤独感をつのらせていったことが読み取れます。

 この事件にしてもそうですが、犯罪を起した少年の家族や子供部屋に共通する事は、父親の不在、夫婦の葛藤、家族団らんの場の消失、子供部屋の密室化 などがあげられます。

 この事件は 郊外エリート家族の闇を象徴している事件であり、そして子どもの危機を育む土壌は、住まいと家族関係の中に存在する事を教えてくれています。













calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< December 2007 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM