いつごろから桜が好きになったのかと、ふと思うことがある。
高校の頃までは、むしろ色鮮やかな花が好きだったと思う。
古来、桜を待ちわびる心を詠んだ歌や書物が多いが、高校生の私にとって早春の喜びとは、桜の開花ではなく、やわらかな陽ざしとともに雪がとけ、まだらに黒い土が顔を出し始める頃のほうが大きかった。
二十代のはじめ、桜の季節に京都を訪れたことがあった。
洗練された街並みや社寺を背に咲いている桜を見たとき、この花は幾代にもわたって、多くの人たちから愛されることによって完成された文化そのものだと思った。
染井吉野 京都 嵐 山 それまで、山桜と染井吉野しか知らなかったが、八重桜、枝垂桜、紅桜などいろんな種類や色があること。
また、朝霧をふくんだ桜、夕暮れ時や夜の桜など、見るときによってさまざまな風情や表情を見せることを知って、桜がとても好きになった。
それからこの季節になると何回京都に通い、また東京で何度この花を見たことか。
毎年桜を見るということは、思い出を一年ごとに重ねることでもあり、かつて一緒に見た大切な人や、その季節に別れた人を思い出し、時にとてもつらくなることも多くなった。
紅枝垂れ 京都 平安神宮 今年の東京の桜は、例年より十日ほど早く、三月末に満開になったが思いのほか寒い日や雨の日が続いた。
この悪天候にがっかりしながら、それでも雨の降る夜 四ツ谷の土堤に足を運んだ。
四ツ谷から市ヶ谷、飯田橋と続く土堤は、江戸時代 お堀として造られた。
千鳥が淵 ほどの華麗さはないが満開を少し過ぎた頃は、その下を流れる水面が隠れるほど桜で埋めつくされる。
晴れてさえいれば、花見客や行きかう人で混雑したであろうに、 ひっそりとして 人影もない。
青白い街灯に浮かんだ桜は、冷たい雨に打たれ、凍りついていた。
雨が降ると満開になっても色が褪せて、鮮やかさがなくなるだけになんとも惜しく、花びらから落ちる雨のしずくは涙のように見えて、こちらまでせつなくなってくる。
飯田橋近くには逓信病院があり、突然倒れた友人が入院しているはずである。
傘を上げて花の向うに見える病院の窓を見上げながら、どんな思いで今年の桜を見ているのか、心中を察しながらしばらく歩みを止めていた。
健康は、しみじみありがたいと思いながら、あと何回桜が見れるだろうかと、ふと考える。
一人でしみじみ見る雨の日の桜は、心に郷愁を呼びいろんな思いを運んでくれる。
例年、桜が咲いている間、花見酒で浮かれ過ごすことが多いが、今年はもうひとつの季節の過ごし方を、雨の日の桜が教えてくれた気がする。
夜 桜 京都 清水寺